雷門一之宮通り参道化工事の記録
■参道化工事のいきさつ
― 通りの景観改良の試み ―
私たち商店会の通りは、何の変哲もないどこにでもあるようなアスファルト道路と消費電力の多い水銀街路灯が数本、申し訳ない程度に細々と建っている、特徴のない裏道そのものでした。
都営地下鉄の出口を出られた観光のためのお客さまは、「ここが観光都市浅草なの?」と、首をかしげ、どこの路地に出てしまったのか不安に思うほどの状況だったのです。
これが以前の通りの姿です。
どう見ても裏道です・・・
■通りの歴史性を考える
―専堂屋敷跡地にある通り―
東京と言う都市は、近年二度大きな災禍である、関東大震災と大東亜戦争という物理的な災いと、二度の文化的災禍(明治維新と戦災後の復興期)によって文化の混乱と断絶が起きました。
しかし江戸幕府が置かれ240年の期間は、町人文化を醸造し、世界でも稀に見る文化の花を開花させました。また維新後は帝都という重要拠点にあった地理的条件によって、資料的な一側面を見ると恵まれた環境だったとも言えるのです。
文献としても、多くの図版の中にも、昔を知りえる手がかりは、多くの資料として残されています。過去を検証使用とするものには資料的には事欠かないのです。ただ江戸の華と言われた火災は多くの資料を灰燼に帰した感もなくもないのです。
古老の声が伝えられていないのは惜しむべきところではありますが文献を読み解くことができれば、非常に調べがいのある土地柄と言えそうです。
歴史を紐解くと、この通りは、明治の声を聞くそのときまで、推古天皇36年当時、浅草の郷士であり文化人であった土師中知の子孫が代々所有し続けてきた屋敷跡地(専堂坊屋敷と言います)に位置することが解りました。
土師中知と専堂坊につきましてはこちらをご覧ください。
推古天皇36年(628年)と言いますからおよそ1400年前の話しです。
観音様を浅草浦(隅田川)から網にかけて掬い上げた漁師の兄弟は、土地の郷士であった土師中知(はじのなかとも)に伺いをたてられたといいます。
中知は掬い上げたその不明の像が、観音菩薩と解ると、自分の邸を観音堂とし、自ら私渡僧となり観音様に生涯仕えたのだということです。
その邸宅が規模を縮小しながらも明治期まで代々残っていたと言うことは特筆することと思います。(江戸末期には借家を敷地内に建て店子に貸していたようです)
つまりこの通りの特徴を一言で言えば、観音様ととても関わりの深い土地柄ということになります。
大正期(推測ですが震災復興の時点で通りがつけられたのではないでしょうか)に、その中知の屋敷跡地の真っ只中に一之宮通りは設けられたことになります。
■浅草寺参道としての雷門一之宮通り
浅草寺へのルートはいくつかあります。
現在は雷門が浅草寺惣門として、雷門以北が「浅草寺」という感覚になりつつありますが、古く江戸の町は、水利を生かし舟を交通の要としていました。ですので駒形の渡し場、現在は駒形橋のたもとが、その入り口、駒形堂近辺が浅草寺の玄関口でありました。
余談ですが、駒形堂は竣工当初は川側に向かって建てられていました。時代が下り南向きに建て替えられ、再び建て替えられた時に現在と同じ西向きに建て替えられたのです。
千葉方面や横浜方面からのお客様は、都営地下鉄を利用されます。その都営地下鉄の駅前に位置するのが雷門一之宮商店会ということですから、雷門-浅草寺のルートとなるわけで、参道としての位置づけになるわけです。
■門前町として整備
「きれいにしようよ。門前町らしく」
そんな気持ちで、商店会員と地元有志の心を結集して参道としての整備をしていくことになりました。
お正月を前にLED街路灯が建って、ちょっと参道のイメージに近づきました。
■エコ街路灯のさきがけ
この街路灯は、エコ時代に先駆けて、すべての光源はLEDとしました。
区の基準で設計されると、5基あれば良いことになってしまう街路灯の本数でしたが、LEDの光源としてのルーメンス値、通りの景観と言うことを考慮して倍の10基にすることにしました。
全ての光源がLED街路灯の商店街は都内で二番目となります。
招き猫にちなんだこんな案もありました。
後日談になりますが、とても驚くことがありました。
電気代は商店会が支払うことになるのですが、その費用。
なんと一ヶ月利用して概ね千円出してお釣りがきます。
唯一の欠点だった照度にしても(実際は暗いのではなく光の直進性というLEDの特性で光が拡散しないためからくる誤解なのですが)、どんどん進化して明るくなっているし、全ての街路灯がLEDになったらどれほど節電に効果があるでしょう。
もっと積極的に導入されるべきではないでしょうか。
■敷石工事の準備
もともと真っ黒いアスファルトの通りに違和感を覚えたのが通り会を発会したのがそおもそもの発端でしたので、道路材(表層部)にする素材、パターン、景観イメージ、工法等など、敷石工事には念には念を入れて熟慮に熟慮を重ねて決定していきました。
工事業者を違えて幾種類ものパターンを描きながら、100年先までも厭きない景観と材料入手の安易さを考えながら、かつ・・・安価にできるかを考慮して選定していきました。
↑中央部分に白御影石歩道部分はインターロッキングを使用したパターンに決定。
基本パターンをもとに全体になるとどういうイメージかを全体に描き起こし他の画上図です。
Tの字になるので敷石の張り方などを検討しました。
東西路線は反対のパターン。
中央部にインターを、歩道部に御影石をしました。
施工後のイメージ画像(上:施工前/下施工後)を作成して確認。
会議で決定していよいよ施工に入ります。
■南北路線
地下鉄出口付近
ひかり寿司の前の敷石を敷いています。
御影石材を搬入
晴海の倉庫から現場近くの駐車場に仮置してはこうしてセットしました。
さすが石工はうまいね。
いとも簡単に小物を作ってしまいます。
雷門通り側入り口付近。
基層路盤は旧舗装面を利用して工期の短縮と車路として強固であるようにとの配慮。
車道部分は重量車対策として、アスファルトの基層路盤の上にモルタルを敷いてその上に80mm厚の御影石を敷きました。
敷石は夜景が美しいなあ・・・
半分敷き終わりました。こうしてみると、もともとのGL(グランドライン)がアスファルト面ですから、それよりも敷石分全体が嵩上げされたことがよくわかります。
完成しました!
基層にはもともとのアスファルト舗装を利用している。
道路付帯施設(側溝や地下ケーブル)をやり替えています。
南北路線と異なり歩道部分が御影石、車道がインターロッキング。
南北線とはパターンが違います。御影石を歩道に用いて
突き当たりに江戸通り(国道6号線)
■ヒ一アイランドに対して
御影石の敷石は油脂製品のアスファルトと比べて、夏の暑さに効果的と思われます。
合わせて歩道部分に使用した敷石材のインターロッキングは当初、保水性の新素材を使用するつもりでおりました。
保水性インターロッキングというのは、水が石材内部に溜まるような性質を持たせた新素材で、熱暑対策に効果があるということで計画していました。
打ち水が熱暑対策によいと叫ばれていますが、石材内部に水を留保するので、気化熱の原理で、打ち水効果をさらに助長する役目を持ち、舗装表面温度が通常の敷石材と比べて2~3度低いのが特徴です。
通りを歩く方にも幾分かは涼しい思いをと考えていました。
■宿題!
残念ながら財源の理由で今回は通常のインターロッキングになりました。
通常のインターロッキングでもアスファルトよりは涼しいですが・・・・
この点は将来への課題がのこりました。
商店会の入り口の表示(門柱など)がされていないこと、土師中知の邸宅跡地(専堂坊屋敷)の碑の建立とあわせて将来への宿題となりました。
■歩き初め式
渡り(歩き)初めは、浅草寺一山のご住職方はじめ区長、区議、警察、消防の方々、今まで定例会で講演していただいた各商店会長やお世話になった工事関係者の方々、町会関係者においでいただいて執り行われました。